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支倉六右衛門常長の墓
(宮城県川崎町)
次は「圓福寺(えんぷくじ)」にある「支倉常長六右衛門常長の墓(はせくら ろくえもん つねなが のはか」を見に行きました。
「圓福寺」は、県道119号沿いにある「支倉郷土文化伝承館」と「イーレ!はせくら王国」(旧支倉小学校)のすぐ裏手にあります。
僕が「支倉六右衛門常長の墓」を訪れるのは、これが3度目。
昔、川崎町を回った時にも訪れたことがあったし、何年か前に「支倉常長まつり」を見物したとき、当日の朝に、墓前でお寺の行事が行われるところを見物したこともあります。
02「圓福寺」の入口。 銀色の案内柱と白い案内板が設置されています。 車で入って行くと奥に駐車場がありました。
03画像(02)にも写っている白い案内板。
04本堂の前では、サルスベリの花が咲いていました。
05サルスベリの花。
06古木のようで、サルスベリの木の根元は穴になっていました。
07ハギも花が咲いていました。
08本堂に置かれているクジャクの彫刻。 これすごいですよね。 よく見ると木の根を使った彫刻になっているんです。
09外に置いてあるからか、以前見たときよりだいぶ艶がなくなり、色が落ちているような……。
10本堂裏の斜面が墓地園になっていて、そこに「支倉常長六右衛門常長の墓」があります。 墓地園を歩いていると銀色の案内柱があり、「いかり印の墓」と書いてありました。
11墓地園の斜面の一番高いところに「支倉常長六右衛門常長の墓」があります。
12画像中央の白っぽい墓石が「支倉常長六右衛門常長の墓」。 その背後の大きな板碑は支倉常長公碑文。
13支倉常長公碑文。
14墓前にある装飾と片倉家の家紋。
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16「支倉常長六右衛門常長の墓」の辺りからの眺め。 赤い大きな屋根が「圓福寺」本堂。
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支倉六右衛門常長の墓
(宮城県川崎町)
2020年9月、久しぶりに川崎町を車で観光しました。 そのとき巡った場所を[川崎町ドライブ観光]として全7回でブログに書いています。
次は「圓福寺(えんぷくじ)」にある「支倉常長六右衛門常長の墓(はせくら ろくえもん つねなが のはか」を見に行きました。
「圓福寺」は、県道119号沿いにある「支倉郷土文化伝承館」と「イーレ!はせくら王国」(旧支倉小学校)のすぐ裏手にあります。
僕が「支倉六右衛門常長の墓」を訪れるのは、これが3度目。
昔、川崎町を回った時にも訪れたことがあったし、何年か前に「支倉常長まつり」を見物したとき、当日の朝に、墓前でお寺の行事が行われるところを見物したこともあります。
02「圓福寺」の入口。 銀色の案内柱と白い案内板が設置されています。 車で入って行くと奥に駐車場がありました。
03画像(02)にも写っている白い案内板。
支倉六右衛門常長の墓
四〇〇年前、政宗公の使者として太平洋・大西洋を渡り、日本初となる通商外交の国際舞台で活躍した人、それが「支倉常長」です。
川崎町は、この世界史に名を残す支倉常長のふるさとです。
中級武士の常長が、なぜ遣欧使節にえらばれたかについては諸説あります。
しかしヨーロッパへと渡航し、世界中に領国をもつ大国スペインと通商外交を行った史実は、世界史上の快挙として輝いています。
快挙をたたえられ、ヒーローとなるはずだった常長。しかし、時代の運命で通商外交に失敗し、失意のうちに帰国します。
そんな常長を川崎町の自然は、変わらずに迎えたことでしょう。
the grabe of Hasekura Rokuemon Tsunenaga
四〇〇年前、政宗公の使者として太平洋・大西洋を渡り、日本初となる通商外交の国際舞台で活躍した人、それが「支倉常長」です。
川崎町は、この世界史に名を残す支倉常長のふるさとです。
中級武士の常長が、なぜ遣欧使節にえらばれたかについては諸説あります。
しかしヨーロッパへと渡航し、世界中に領国をもつ大国スペインと通商外交を行った史実は、世界史上の快挙として輝いています。
快挙をたたえられ、ヒーローとなるはずだった常長。しかし、時代の運命で通商外交に失敗し、失意のうちに帰国します。
そんな常長を川崎町の自然は、変わらずに迎えたことでしょう。
the grabe of Hasekura Rokuemon Tsunenaga
04本堂の前では、サルスベリの花が咲いていました。
05サルスベリの花。
06古木のようで、サルスベリの木の根元は穴になっていました。
07ハギも花が咲いていました。
08本堂に置かれているクジャクの彫刻。 これすごいですよね。 よく見ると木の根を使った彫刻になっているんです。
09外に置いてあるからか、以前見たときよりだいぶ艶がなくなり、色が落ちているような……。
10本堂裏の斜面が墓地園になっていて、そこに「支倉常長六右衛門常長の墓」があります。 墓地園を歩いていると銀色の案内柱があり、「いかり印の墓」と書いてありました。
この墓は、古くからキリシタンの墓と伝えられていた。平成四年十月スペイン(遣欧使時代はイスパニア)のコリア・デル・リオ布在住のハボンサン一行(常長公の従者たちの子孫の姓)が常長公の墓参りの際、いかり印を見てローマ・スペインを従来した人たちの墓であろうと話をしていた。
現地案内柱より
11墓地園の斜面の一番高いところに「支倉常長六右衛門常長の墓」があります。
12画像中央の白っぽい墓石が「支倉常長六右衛門常長の墓」。 その背後の大きな板碑は支倉常長公碑文。
13支倉常長公碑文。
14墓前にある装飾と片倉家の家紋。
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16「支倉常長六右衛門常長の墓」の辺りからの眺め。 赤い大きな屋根が「圓福寺」本堂。
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