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01 支倉六右衛門常長の墓、圓福寺、宮城県川崎町、Tanji
支倉六右衛門常長の墓
(宮城県川崎町)






2020年9月、久しぶりに川崎町を車で観光しました。 そのとき巡った場所を[川崎町ドライブ観光]として全7回でブログに書いています。


次は「圓福寺(えんぷくじ)」にある「支倉常長六右衛門常長の墓(はせくら ろくえもん つねなが のはか」を見に行きました。

「圓福寺」は、県道119号沿いにある「支倉郷土文化伝承館」と「イーレ!はせくら王国」(旧支倉小学校)のすぐ裏手にあります。

僕が「支倉六右衛門常長の墓」を訪れるのは、これが3度目。

昔、川崎町を回った時にも訪れたことがあったし、何年か前に「支倉常長まつり」を見物したとき、当日の朝に、墓前でお寺の行事が行われるところを見物したこともあります。



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02 支倉六右衛門常長の墓、圓福寺、宮城県川崎町、Tanji
「圓福寺」の入口。 銀色の案内柱と白い案内板が設置されています。 車で入って行くと奥に駐車場がありました。


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03 支倉六右衛門常長の墓、圓福寺、宮城県川崎町、Tanji
画像(02)にも写っている白い案内板。
支倉六右衛門常長の墓
 四〇〇年前、政宗公の使者として太平洋・大西洋を渡り、日本初となる通商外交の国際舞台で活躍した人、それが「支倉常長」です。
川崎町は、この世界史に名を残す支倉常長のふるさとです。
中級武士の常長が、なぜ遣欧使節にえらばれたかについては諸説あります。
しかしヨーロッパへと渡航し、世界中に領国をもつ大国スペインと通商外交を行った史実は、世界史上の快挙として輝いています。
快挙をたたえられ、ヒーローとなるはずだった常長。しかし、時代の運命で通商外交に失敗し、失意のうちに帰国します。
そんな常長を川崎町の自然は、変わらずに迎えたことでしょう。

the grabe of Hasekura Rokuemon Tsunenaga


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04 支倉六右衛門常長の墓、圓福寺、宮城県川崎町、Tanji
本堂の前では、サルスベリの花が咲いていました。


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05 支倉六右衛門常長の墓、圓福寺、宮城県川崎町、Tanji
サルスベリの花。


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06 支倉六右衛門常長の墓、圓福寺、宮城県川崎町、Tanji
古木のようで、サルスベリの木の根元は穴になっていました。


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07 支倉六右衛門常長の墓、圓福寺、宮城県川崎町、Tanji
ハギも花が咲いていました。


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08 支倉六右衛門常長の墓、圓福寺、宮城県川崎町、Tanji
本堂に置かれているクジャクの彫刻。 これすごいですよね。 よく見ると木の根を使った彫刻になっているんです。


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09 支倉六右衛門常長の墓、圓福寺、宮城県川崎町、Tanji
外に置いてあるからか、以前見たときよりだいぶ艶がなくなり、色が落ちているような……。


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10 支倉六右衛門常長の墓、圓福寺、宮城県川崎町、Tanji
本堂裏の斜面が墓地園になっていて、そこに「支倉常長六右衛門常長の墓」があります。 墓地園を歩いていると銀色の案内柱があり、「いかり印の墓」と書いてありました。
この墓は、古くからキリシタンの墓と伝えられていた。平成四年十月スペイン(遣欧使時代はイスパニア)のコリア・デル・リオ布在住のハボンサン一行(常長公の従者たちの子孫の姓)が常長公の墓参りの際、いかり印を見てローマ・スペインを従来した人たちの墓であろうと話をしていた。
現地案内柱より



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11 支倉六右衛門常長の墓、圓福寺、宮城県川崎町、Tanji
墓地園の斜面の一番高いところに「支倉常長六右衛門常長の墓」があります。


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12 支倉六右衛門常長の墓、圓福寺、宮城県川崎町、Tanji
画像中央の白っぽい墓石が「支倉常長六右衛門常長の墓」。 その背後の大きな板碑は支倉常長公碑文。


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13 支倉六右衛門常長の墓、圓福寺、宮城県川崎町、Tanji
支倉常長公碑文。


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14 支倉六右衛門常長の墓、圓福寺、宮城県川崎町、Tanji
墓前にある装飾と片倉家の家紋。


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15 支倉六右衛門常長の墓、圓福寺、宮城県川崎町、Tanji



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16 支倉六右衛門常長の墓、圓福寺、宮城県川崎町、Tanji
「支倉常長六右衛門常長の墓」の辺りからの眺め。  赤い大きな屋根が「圓福寺」本堂。


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17 支倉六右衛門常長の墓、圓福寺、宮城県川崎町、Tanji






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